2024 年始

新年早々の出来事に胸を痛めております。自分の備忘として書いています。

12月31日に実家へ帰って紅白を通しで見て(そんなのいつぶりだろう)新年を親と迎えて爆睡し、1月1日午後の新幹線で関東に戻る途中で。仙台を過ぎたあたりで襲われた睡魔に勝てずいつの間にか寝てました。元日の新幹線でもそこそこ混んでいたのとポイントを使って人生の片手で数えられるほどのグリーン車乗車でもあり、気持ち良かった。

ずいぶん停車したままだなと思いまず時計を見たら16時20分頃だったと思います。

予定ではあと1時間ちょっとで東京着、と思いつつ寝起きでぼーっとしてる人が異変に気づくのにはしばらく時間がかかりました。

あ、これ新幹線が停まってるんだ?

なんか暗いよね?と思っていたら周りのお客さんがざわざわ“地震があったみたい”とし出し、車内アナウンスがあって事態を把握しました。どうやらトンネルの中で停まったようでした。

とっさに思い出したのは2008年の地震の時でした。それと、今は車内販売がないのでほぼ飲み干してしまってちょっとしか残っていないペットボトルを見つめながら、長丁場になったら大丈夫かな、と思いつつ、“お手洗いは使えますがドアは手動です”などのアナウンスが続く。一体どこで地震があったんだろうか、とケータイでアクセスするも繋がらない。トンネル内だからかな、実はそこまでのことではないだろうと思いながら。

そんな折に前の夫婦が話している声が聞こえた。“震度7だってよ”

一気に動悸が襲ってきて、涙が止まらなくなった。どこで何が??必死にケータイを再読み込みし続けたら目に入ってきたのが「大津波警報」の文字だった。

今、この文字を打ちながらも心臓がバクっと動く。フラッシュバックとか精神的なものというのは事実、身体がそう動くからあるものなのだ。

ケータイで震源までは分かったけど、車内アナウンスでも具体的な言及はなく確か“北陸地方で発生した地震で”という言い方だったような気がする。

とにかく何もあってくれるなという思いと、津波からは逃げてほしいという思いしかなかった。自分の心がつらくて、拭いても拭いても涙がにじんでくる。

今のわたしに出来ることは願うことしかない。電源は復旧して明るくなった車内からトンネルのコンクリートを眺めながら、仮に関東に着いて電車が動いてなかったら入館証もあるし文化放送までは自力で行ければあとはなんとかなる、とか考えてました。

おおよそ40分ぐらい停車していたのだろうか、郡山と新白河の間と言っていた気がするけど、新幹線は動きはじめた。そこから途中で停まったりゆっくり進みながらも、予定より1時間は遅くならない時間で東京駅に到着。新幹線が動き出したらネットにも繋がるようになり、おおよその状況は理解できた。

そわそわしながら、実家から持ち帰った食べ物を持って帰った。関東の鉄道は通常通りだったと思う。そのその手にしている食べ物の重さが辛かった、きっとこれからあたたかいものを食べるのもしばらく大変だろう、そんなことを思っては電車でも涙がこぼれてしまう。

振り返って、わたしは2011年3月11日の東日本大震災の時の記録をほとんど残していない。残すこと・記すことは不謹慎だと思っていたところがあったし、正直なところ余裕もなかった。カメラ付き携帯だったのにスタジオの写真などもほとんど撮っていない。

けど、果たしてそうだったのだろうか。今はそうは思わない。あの時のことを残しておくべきだった、可能な限りで。大量に届いた安否確認のメール(サーバーがダメになって、ヤフーだったかが開設した簡単に取れるアカウントでFM岩手のアドレスも作った記憶がある)、コピー用紙が足りずに裏紙に赤で×をして再利用して放送でも使う(基本的に放送で裏紙を使うのは厳禁、どちらが本当の情報か分からなくなる時があるから)、〇〇市より細かい地名も読む必要があり、難読地や馴染みのない土地を紙に書きスタジオに貼っていったらあっという間に埋まった壁。

発災当日、エルスカのカッちゃんが帰れなくなってFM岩手に立ち寄った時に持っていたスティック昆布茶が美味しかったこと。放送局は電気が通っているからお湯が飲めたんだと後で知った時の落胆と申し訳なさ。テレビ岩手の社食のおねえさんたちがFMにも差し入れてくれたおにぎりの美味さ。

沿岸部の状況がまるで分からない中で、日付変わって12日の深夜にFM岩手の営業さんが語っていたレポートは、今思い出しても涙が出る(ご本人のインタビューはこちらの動画から)。そして改めて今、この動画を見るとレポートを入れてくださった時間は深夜でなく、未明・朝方だったのだなと記憶違いが既に起こっていることに気づく。

夜通しの放送が明けて朝日が登って応接室で仮眠したけど、長期戦になる放送に近くのスーパーが売り出しをするというので総務部長と買い出しに行ったこと。でもこの時で覚えているのは、極端に買い込みなどをする人は誰もいなかったということ。わたしたちも本当はもっと欲しかったカップラーメンを“買いに来たのは我々2人だもんな”と、本当はもっと欲しかったのを我慢したのを覚えている。そしてあの時に知ったのは、どんなに過酷で辛い状況でも、残念ながらしっかりお腹は空くということ。

関東は極めて普通の日常ではあるし、想像をめぐらせると、自分の経験に置き換えてはあの時を思い出してしまう。そして、言葉では表現など出来ない状況であろうと十二分に理解をしているつもりだ。からこそ、いざという時に動ける(金銭面も含む)体力を備えておくことだ。きっとその時はすぐ来ると思う。情けないかな、今は気持ちは側に置いています、という、それしか出来ないけれど、それが大事だと思って今日を・日常を生きることにします。

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