圧倒的な思考の欠如〜陸前高田市に行ったこと

はて、と気が付いたのですが。そうかそうか、考える、という行為が減っているのだな。人と会って話したり本を読んだり思考を巡らせていると思っていたけれど、それは‘思考しているふり’をしているだけだったのだな、と。

昨日、伊藤清彦さんの訃報が届きました。昨年、初めてお会いできたその時のことは過去の自分のブログに委ねますが、ふと、伊藤さんの存在を知った大学生の頃を振り返ることにもなり、あれこれ逡巡していると、あの頃はただ一生懸命考えることしかできなくて、でも今はあの頃の倍は生きてしまった経験値みたいなものが先に勝手に動いて、「あぁこうすればいいのかな」と乗り切れてきてしまっている。最近、というのがどれくらい続いたのか、そうやってなんとなくいろんなことは形になって、あまり考えるという行為をせずに生きてきてしまっていて、頭を使っているようで使っていないのだな、と。はた、と気づいた今朝。

伊藤さん、もう一度、お目にかかりたかったです。ただ、それだけです。でも、いち市井のわたしが去年にお目にかかれたことは、幸せなこととも言えるのかもしれない、とも思います。

さて。そんな今、考える…それこそわたしが考えたところで何も変わらないし変えられない案件のひとつ。
昨年末、年末恒例『東北ライブハウス大作戦・暴(忘)年会(のことは次に書きます)』で。初の試みとして、幡ヶ谷再生大学(については省略します)とライブハウス大作戦との企画で、『陸前高田スタディツアー』を行いました。忘年会は飲んでナンボ、なわけでスタディツアー前日も皆かなりの量を飲んでいたのに遅刻者ゼロでツアーはスタート。

高田の街は本当に行くたびに変わっていて、地元の方でもどこが何かまったく分からなくなってしまうのもよく分かる。かさ上げ工事もかなり進んでいる。

かさ上げ工事が進み、周り一帯がすべてかさ上げの土地に囲まれる中。この米沢商会の建物はあの頃のまま今も残る。陸前高田としては、その建物で亡くなった方がいない場合、建築物を残して良いという方針とのことでこの建物も残すことができるとのこと。この建物に一人残った社長さん(と言ってたと思う)は建物のいちばん、いちばん上まで登って津波を免れたという(他の従業員の方は別の場所へと避難)。

このように、ご厚意で地元の工事業者の方にご案内をいただきお話を聞きながら。普段は入れない場所にも行かせてもらう。その一つが、愛宕山と呼ばれた地元の小高い山にも登ったのですが、同じく亡くなった方がいない気仙中学校、こちらの校歌に‘愛宕山’と歌われていた歌詞も、今や震災後の開発などで切り開かれてしまったと聞く。

そんな陸前高田に完成した、復興祈念公園にも、皆で行きました。

とても洗練されたデザインが美しい公園でした。確かに公園、で、道の駅のような役割も果たしつつ、無料で見学できる震災時の出来事を見られる展示は、申し訳ないですがまともに見ることなどできませんでした。今、思い出しても文字を打つ手が止まってしまう。
沿岸の方々の恐怖や不安は、あの時、いかばかりだったのだろうか。

あの時、ラジオを通して伝えることに必死だったけど、その放送に対しては文句や罵詈雑言もいただいた。あの時、でもそんなことに構っていられなかったし、声を止めないことしか皆考えていなかったと思うし、放送に対して憤りを送ることが何かのはけ口になるならそれでいいといちいち落ち込むこともなかった。でも、でも、あの時の恐怖や不安を思うと、なんだかなんだか、自分のふがいない思いと情けなさで、今も、胸が詰まる。書きなぐったファックスの文字がフラッシュバックする。

震災の頃はちょうど地元の岩手を離れたという、今やシンガーソングライターの村松徳一くん(左)、震災後の大船渡にライブハウスができて(それが東北ライブハウス大作戦ひとつの店舗)&いま音楽の道も進むシンタロー(Giganticsというユニット)。彼らとも話しながら、今だから話せることもあるよね、って。村松くんは仙台に住んで、いろんな人に助けられたこと、自分も炊き出しに行ったことなど初めて話してくれた。

時は経つ。戦争を知る世代が減ってくることと同じように、震災の経験者だって減っていく。それが時が経つということ。自分が経験したから傷もあるから理解できることは震災に関しては確かに多いけれど、それは「思考」という思い巡らす行為がちゃんとできれば、どんなことでも、経験をしていなかろうとも。想像する、強く想像することができる人であれば、そうあることが大事なのではなかろうか、人として。つまりは繰り返しになるけれど、思考できるということは生きている以上、とてつもなく大切なことではないかと。

祈念公園から目にできる景色、海との間に小さな苗が育っている。松を育てているのだと。いつの日かまた松の原っぱが戻ってくるのかもしれない、でもこの日、語り部の方はこういったお話もしてくださった。

「陸前高田は松がたった1本しか残らなかった。かたや、宮城の景勝地・松島は、松が今もなお残っている。その差は何か、自然の松林だったか、人の手による松林だったか」

こちらも今回、ちゃんと目視で確認できた建物。国道45号線に今も残る旧・道の駅(通称タピック)。こちら建物内部が完全に崩壊しているけど、亡くなった方が出ていないのは、直角三角形になっている屋根の部分が海側から見るとどこかのスタジアムに行ったかのように階段のような段差になっていて、助かった人はこの屋根を上まで登ったのだという。

ネットで検索すれば情報は簡単に手に入る。陸前高田の景色を目の当たりにしてもこうしてブログに書くのに検索してしまう始末。でも、情報は、自分のものにしなくては意味がない、単にその時欲しかった情報に行き当たって、「はいそうでしたね」と思うだけなら頭の中に何も残らない。情報を得て、それで思考するということ。

あぁ、これだったんだな。いつからか最近の、自分に欠けているものは。

朝からスタバというシャレオツな環境でこの文章を書いてみました(でもネットに接続できなくてアプしたのは夕方になるけど)。

さて、陸前高田の思考の件。最後に一言、「陸前高田という街に、5万人を収容できる音楽施設の建設は必要なのか」です。最近、会う人会う人にこの話をしています。はい。

This entry was posted in 3月11日. Bookmark the permalink.

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