富岡、双葉、大熊、浪江の街へ〜騎馬武者ロックフェスの前に〜

まずはお知らせ。本日26時〜文化放送『music with you!』です🎶

全都道府県ツアー真っ最中のバンド・鶴のメンバー全員が浜松町にも立ち寄ってくれます!ツアー中のあんな話こんな話もしてくれますよん(^^)ディレクターもお迎えしたかったバンドが遂に登場です、おたのしみに!

 

さてさて表題の件。

東日本大震災の津波にのまれてしまった、福島県の富岡駅。富岡と言えば渡辺俊美さんのふるさとですね。

もともと常磐線で上野(だよね?)から仙台まで乗り継いで行けるのですが、震災後はこの駅舎の崩壊や立ち入り禁止のエリアに路線がまたがっていたりして、全線復旧とはまだ行かないものの、この富岡駅は昨年10月にまた電車を受け入れるようになりました。

そんなわけで、南相馬・騎馬武者ロックフェスまでの道のりは電車で行くことに決めた!のです(不通区間は代行バスで移動できるし、不通区間も富岡駅からいくつかの区間が復旧したので、短くなりました)!

まだまだ工事中の富岡駅の様子。停まっている電車の先には海が見える。

富岡駅舎の中にはちょっとしたお店もできていて、イートインスペースも。桜が綺麗な町だけあって、ほんのりピンク色が美しい『さくらうどん』を食べることができます♪

富岡〜浪江間の代行バスは本数が少ないので、予定の時間を逃すと大変!

代行バスに乗る時間はおおよそ30分ほど。一路、国道6号線を走り始めると信じられない景色がただ広がってました…

「写真の撮影は他のお客様のご迷惑にならないよう、また、窓を開けての撮影は絶対にしないでください」のアナウンスが流れる。そうなのだ、国道6号は局地的に放射線の数値が高いところが今もあるのだ。

写真を撮るのに手が動かない景色でした…同じような方が多かったと思います、カメラのシャッター音はほとんど響かない車内でした。

 

浪江駅でバスを降り。一人の男性に声をかけられる。「皆さん、観光か何かですか?」

そう思われるのも分かる。

 

代行バスがこんなに立派な観光バスだったのであります。

声をかけてくださったのは、新聞記者の方でした。福島のことはそんなに知らなくても、震災については。色々、立ち話をしていたら浪江駅から南相馬までの電車が出る時間!

初対面で、こんなこと初めてなんですけど…

新聞記者の方の取材に、同行させていただくことに!

「レンタカーで、まずは(わたしがショックを受けた景色の)国道6号を走ってみましょう!」

わたしが代行バスできた道のりを、もう一度。走ってみることに。

ショックだった、ファミリーマート。接写するとですね、

自動ドアは開きっぱなし、窓ガラスは割れて、中の商品も残っていたり。まさに荒れ放題。

ファミマに限った話じゃない。全国のロードサイドにあるいろんな有名店もそのまんまで残ってる。

これが、このままで良いのだろうか。

(地元の方の話の一つとして。結局、撤去の作業をするにしても今は線量が高いわけで。そこまでのリスクを冒して撤去することが必要なのか?このままにしていても住んでる人はいないし、誰も困る人はいないわけで。それもまた、もっともだと頷かざるを得ない話だ)

浪江へと戻る道は高速道路を走ってみる。大熊のあたりかな、ケタ違いに高い放射線量。ゆえに今もオートバイでの通行は禁止です。

遅めのお昼ご飯を食べるお店探しにも一苦労。特に浪江町に関しては、実質、町に戻ってきて住み始めている人口がまだ少ないため、お店が少ない!上に、月〜金の営業に絞っているお店も(B級グルメの浪江焼きそばのお店がそうだった)。今、働き手の人材確保もとにかく大変で、浪江でお店を出している大手(コンビニとか)は時給が1500円を超すのだそう。そうなると、仮に地元の方がお店を復活させたいと思っても、そんな時給が出せないわけで。

たまたま、「スープがなくなりしだい終了」のお店に滑り込みセーフ!ホントに賑わってましたが、調べでは震災後に場所を変えて復活した地元の名店らしいです。にんにくの香り高いカレーラーメン、コレまた食べたい!

浪江町の役場へと。週末でも人はいるもので、あれこれ質問。驚いたのは、役所で働く方々も地元の方は圧倒的に少なく、関東圏からも応援部隊で来ている方が多いこと(ちなみにこの時に対応してくださった方もそういう方で、「細かい話は私も分からないことが多くて〜」と何度かおっしゃっておられた)。

そんな浪江の役場内にはこんな掲示が!マジ!?

最新のポケモンまで全フィギュアが飾られている入り口!まさかサトシと所縁があったとは!これはもっと自慢すべき!

今回、新聞記者の方の取材を目の当たりにできて、とても勉強になりました。

自分が見たり聞いた話の裏付けとして、また違う他の方がどう話すかというのを地道に探っていく。それは町の、普通に暮らす、市井の方々の声を。

「駆逐されてだいぶ減った」と聞いていたイノシシ(豚と交配されているかも?)も、田んぼの道を走っていたら大きいのを目の当たりにしたし(昼間はまず見なくなったのにね〜とビックリされた!)、「ほら!うちの畑に来た足跡だから!これ!」って見せてもらった足跡。わたしの足のサイズよりちょっと小さいくらいの後ろ足!

震災前は子供の声が聞こえてたのにねぇ、というポスターなども貼られたままの、まるで人気のない小学校。キンモクセイが強く香りを放っていたのがなんとも切ない。海沿いギリギリまで行くと煙が見える、福島第一原発だ。「人がいませんね〜、あの車のお宅に飛び込み取材しましょう!」と行ったお宅のお父さんは奇しくも震災前に原発作業員で、震災の時にどうだったかという状況を知ることができたこと。郡山での生活をしつつ、浪江の自宅に戻っては農作業を続けるご夫婦。震災時の状況、「今すぐ避難してください!」と、避難先の学校の体育館で言われた時に、「その警察官は防護服でこーんなでっかいマスクしててさ!こっちは着の身着のままなのに、もう、何が何だか」とあの時の状況を語ってくれたお母さん。涙が出る。

 

すっかり陽が暮れるまで、いろいろな方に、お話を伺った。わたしは岩手の出身だし、震災のことは色々と見たり聞いたり知っていたつもりだったけど、福島は「原発」の問題も加わって、またさらに、複雑に要素があるなと実感させられた。この日はお会いしていないけど、福島出身の方では原発に否定的な思いを持っていない方もいる(実際にお会いしたことがある)のも事実だし。

「さぁ、では喉を潤しましょうか!」

こちらは新聞記者(左)の方が元々アポイントを取っていた、居酒屋さんです。浪江町で『こんどこそ』を営む大将(真ん中)、この大将にもまぁいろいろな、いろいろなお話を聞かせてもらいました!あり得ない、びっくりするようなお話も多かったけど、大将は自分の地元でこうしてお店を営む決心を固めた。地元の方が夜に飲んだり食事ができるお店、唯一に近いと思う(この日は家族連れやら男性2人組やら、賑やかでした)。

元々は原発作業員の方々も多く住む町だったので、こうした居酒屋さんはもちろん、スナックも多くあったと聞きます(‘浪江銀座’なんて言われていたとも)。今は数軒?営業されているようですが。

大将に聞いたお話も、書くのは止めておきます。

ぜひ、直接、大将に聞きに行ってみてください。その価値があります。人の生活、人生はいつ、どうなるか分からないし、何かがあった時に、どうするか。大将のお話は、とてもためになる。わたしもまた、必ず!と約束しました。だって…

「あの…たぶんですけど、ラジオやってる方ですよね?なんとなく、お話の聞き方がラジオの方にしか思えないんです!」

…初対面の方にそんなことを言われたのは初めてです(涙)!

いわきで上がったお魚や大将が腕をふるってくれたお料理を食べて。あぁ美味しかった♡

店じまいでお店を出て、浪江の町はただ街灯しか光っていません。建物があっても真っ暗です。

浪江の街中にある福島銀行だってこの有様でした。稼働してる気配がない。

 

新聞記者の方はノンアルコールで(すみません!)わたしを南相馬まで車で送ってくださって南相馬にイン。そこからの流れはすでにブログに書いた通り。

あえて記者の方の名前や新聞社を出すのも控えます。きっと既にこの日のことは記事になっていることでしょう。これまでの記者人生の出来事を聞きながら、なんか勝手にわたしに近いものを持っている方だなぁって思いました。「面白そうなことには飛び込む!」的な。あの有働由美子さんがニューヨーク駐在の時にご一緒してるような方ですからね。笑

今度は、お酒を酌み交わす約束をしました。そんな日がくるような気がしています。そしてその時は、もう少し、福島の状況が好転しているといいな、と願うのみです。

This entry was posted in 3月11日. Bookmark the permalink.

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