もしも。

2018年3月11日/午後1時〜3時に、文化放送報道スペシャル「もう一度逢えるかな〜高田高校1年2組」が生放送されました。午後2時46分前には国立劇場で行われている東日本大震災 七周年追悼式の会場と生中継し、黙祷の間は会場のノイズを最大限にしてBGMは流さずにオンエアしました。

今回、こちらの番組に関わらせていただきました。

なにか、ひとつ。自分の中でのなにかを、乗り越えた感じがします。

タイトルにある、高田高校というのは岩手県陸前高田のことですね。わたしなぞが今の陸前高田に対して思うことを語るのはおこがましい。ましてやものの見方や考え方だって立場が違えば変わってくる。でも、ひとつだけ思うのは、「復興」という文字の実現の難しさ。陸前高田の風景を見ていると、復興とは何だろう、どうなることなのだろう、と。すごく思う。

パーソナリティの詩人、アーサー・ビナードさんはそんなわたしの発言を受け止めてくださった。

そもそもアーサーさんは、震災前に詩の授業を高田高校で行って、そんなわけで陸前高田とご縁があるということで、たびたび足も運んでいらっしゃる。高田の方がインタビューに出て電波に乗せていた声は、文字起こしされた言葉を読むだけでも涙が出てきて最初、原稿もろくに読めませんでした。

今回、アーサーさんが放送でおっしゃっていたことで、心に残ったこと。

リアス式海岸、の‘リアス’という言葉は、日本に来て初めて知ったというアーサーさん(わたしたちは社会の授業で習った単語としてただ、誰でも認識しているけど)。リアス、とはスペイン語で深い谷、などの意味があるという。年月をかけてリアス式海岸の地形ができあがっているなか、この数年で、かさ上げ工事を行い完成させようとしているのは、時間軸がずれているのではないか。人間の短い時間軸で考えるのではなく、地球の持つ時間軸とつきあわなくてはいけないのではないだろうか。

地球の持つ、時間軸。

テレビは比べるまでもない。他にはない特別番組がオンエアされているなぁ、といちリスナーとして感じました。

アーサーさんの著書(右)。アーサーさんとは番組後にもずーっとお話ししてしまいました(写真な!!!撮るの忘れた!!!)。

もしも、は、震災のいろいろな出来事にあてはめて語ってはいけないと分かっていても、もしも、もしも、と。

でも、あ、っと。左側の本を棚から出した。昨年の岩手日報紙面にこの詩が大きく掲載された。涙した方も多いはず。そうだ、この詩も「もしも」と同じ、文法で言うなら仮定法で同じ、だよね。

もしも、と考えて、そしてそこから自分なりに感じることが。これからいつまであるか分からない、生きている限りにおいて、良き作用をもたらすのなら、思考をいい方向に持って行くことができるのなら。

そういうことなのかも、しれないなぁ。

 

きのうはそんなわけで放送が終わってからもアーサーさんたちと話しつつ、頭の中ではいろいろ考えていたのでどうしようかなぁ、と思ったのですが、やっぱり!と、武道館に駆け込み向かい、打首獄門同好会のライブを見ました。どうですきのうのこの振り幅。そりゃ疲れるわ、きのう!

生きてるってこういう振り幅にもついて行くことなんですかね。さて、今日は空が青い!

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